2012年07月17日

ファイナル・ジャッジメント

鑑賞映画館:アポロシネマ8
シアター6
鑑賞日時:6月10日
評価:C

原題:ファイナル・ジャッジメント
製作:2012年 日本
監督:浜本正機
出演:
三浦孝太
ウマリ・ティラカラトナ
海東健
田村亮
並樹史朗
宍戸錠

映画生活 goo映画


※ネタバレを含む場合があります。

この映画はオウランと呼ばれる架空の国家…まぁ、中国なのですが、ここにある日突然占領されてしまった日本を舞台にした宗教的レジスタンス活動を描いた映画です。

正直言って、この映画をまともに評価するのは難しいと感じます。
簡単に言えばかなりどうしようもなくつまらない映画です。
何しろ作品内でのリアリティというもの、あるいは描かれている虚構に対するリアリティの構築といったフィクション作品ではかなり重要な視点が完全に抜け落ちているのです。

たとえば、ある日突然オウランの多数のヘリや戦闘機が渋谷の街を覆い尽くし、日本の併合を発表する場面。映像的なインパクトは確かにあります。
が、私などはこの場面で必死に笑いを堪えていました。
あんなことをやるためにはいったいどれだけの空母や強襲揚陸艦が、そしてそれに随伴する補助艦艇群が必要で、それを維持するためにどれほどの国力が必要だと思っているのでしょうか。あるいは国内のどこかに誰も知らないうちにオウランの大規模な航空基地ができていたとでも言うのでしょうか。そして自衛隊はこの間いったい何をしていたのでしょうか。そしてこの前後に政府の存在や行動なども一切感じられないのはどういうことでしょうか。(それ以前にあれだけの密集であの低高度を飛ぶのは無理というものですがそれはまぁいいでしょう)
劇中では左翼政権だから程度のどうしようもない話以外何も語られません。
極東のパワーバランスの大きな変化に対するアメリカの行動も全く描かれません。
オウランが攻めてくるという結論だけを派手に見せればそれでいいというような場面でしかないのです。

これ以外でもあまりにも都合がよく、そして説得力に欠ける展開や描写が多く、正直辟易してきます。
主人公らが所属するレジスタンスグループは宗教活動も含めて完全に非合法な組織でありながら、実際に行動を起こそうとするまでは誰も拘禁されていないとか、悪逆非道なはずのオウランの軍人は襲われてもろくに発砲もしない平和主義者(笑)だとか、
レジスタンスグループの思想と活動が国内よりもなぜか海外で支持されているとか、処刑場からなぜか簡単に逃げだせるとか、渋谷の真ん中で演説を始め、それを国営放送の機材を利用して世界に中継しているのに物理的に排除されないとか、宗教的理念に満ちた演説でなぜか宗教を信じないはずの国の人が畏れ入るとか、それぞれかなり無理のある話で、虚構としてこれらをきちんと描くためにはかなり難しい設定や描写が必要になってくるはずなのにその努力を放棄していることと、これらはどうでもいい場面というわけではなくストーリーの根幹に関わる場面のために、ストーリーそのものが非常に白々しいものに感じられてしまいます。

中盤に描かれた悪魔との対決は釈迦が悟りを開く場面のオマージュでもあり、映画製作の全てのリソースを投入したとすら思えるかなり出来のいいCGも使われていてそれなりに見ごたえはあるのですが、やっているのは「左翼思想」に騙された被害者だと主張する父親になりすました悪魔を、悪魔と看破した瞬間にそれまでの会話は全部放り出して物理的に・・・いや、霊的にでしょうか、とにかく攻撃してぶっとばすという内容だったりします。
そして、この悪魔が主張していることは、言ってみれば主人公たちが主張することとは相反する現実主義的な、そしてそうであるが故に説得力のある話ばかりなのです。
ここで真に倒すべきは悪魔の存在そのものではなく悪魔の主張であり、悪魔の主張を論破してこそ主人公達が主張する思想の正当性も主張できたはずなのですが、残念ながらこれでは論戦では負けても戦って勝ちさえすればそれでいい、なぜなら自分は正義の側だからとでも言いたげな場面になってしまっているのです。

クライマックスは長く一方的な宗教的演説というかなり退屈なものでしたし、その演説が終わると同時に映画も終わりオウランの変化はテロップで説明されるだけという唐突な感があるものではありましたが、これはこの映画がオウランによる日本占領の顛末を見せることを主眼にしているわけではなく、あくまでこの状況において宗教的に目覚めて指導者となっていく一人の若者を描いたものだと考えれば特に問題はないのですが、そこで延々と言われている憎しみを捨てて愛で世界をどうのというのはもうどこから突っ込んだらいいのだろうと思ってしまうようなことでしかありません。
憎しみを無くし世界が愛に満ちれば世界は平和になる。
結構な話です。では、それを担保するものは一体何なのでしょうか。
愛ですか?自分が信じる愛が通じない相手がいたらどうするんですか?
悪魔と論戦をしたときは思い切り負けていたように見えましたが、やっぱり霊的な何かの力でぶっとばしますか?あ、平和じゃなくなった(笑)
といいますか、こんなことで世界が平和になるというのは、冒頭から随分と揶揄されていた憲法9条さえあれば平和というのと同じレベルの戯言でしかありません。
さらに言えば、憎しみを捨てろと言っても、オウランは日本が憎くて侵攻したという描写はありません。描かれている動機は領土的野心という憎悪とは別の感情(欲望)ですし、その占領政策も治安維持を目的としたもの以外は比較的寛容と言っていいもので、やはり日本に対する憎悪は感じられません。
彼らがやっていることはあくまで宗教を廃絶するという一つの価値観の強制であって、それ以上のものではないのです。
では、劇中で憎悪の炎を燃やしている人がいないかと言うと…… いました。
冒頭の演説を無視して自分たちを落選させた日本国民を憎悪している主人公たちが。
そして宗教を弾圧し自分たちの信仰心を破壊しようとするオウランへの憎悪を燃やす主人公たち。
つまり、この演説というのは、嫌な相手を自分が憎悪しておきながら、その相手に向かって憎しみ捨てて俺たちが信じる愛を信じろというどうしようもない話なのです。
そこには異質なもの同士が理解し合うという視点も無ければ自分が相手に歩み寄るという視点もありません。自分の絶対に正しい思想を相手が受け入れるのが当たり前、みんながこの思想を受け入れたら世界は平和というものなのです。
オウランがやっている宗教を廃絶した社会の強制的な創造と何が違うというのでしょうか。

ここまでいろいろ書いてきましたが、この映画は普通の娯楽映画ではありません。
何かと有名な宗教団体である「幸福の科学」製作による映画であり、あくまで教団の思想や教義を広報するためのいわゆる宣伝映画です。

観客も一般大衆ではなく教団の現役信者か、信者ではなくともこれから入信する可能性が高い人、あるいは入信まではしないにしても教団の政治組織である幸福実現党の政治理念や政策に共鳴する人、つまりは教団の思想信条に近い思想信条を持った人を主なターゲットとしているでしょう。
である以上、その思想信条をやや極端な形で表現するのも当然のことではあるでしょうし、宗教を守る立場を正義、それを排する立場を悪と考えるのも彼らにすれば至極当然のものではあるでしょうし、それ以外の立場のことを一顧だにしていないということも仕方のないことでしょう。
そしてこのような特殊な映画であるという性格上、一般の娯楽映画と同列に扱うことはできないでしょう。

とはいえ、クライマックスの長い演説にこちらがいろいろな意味で辟易しきっているのに周りからはすすり泣く声が聞こえてくるという、同じ映画を見てもずいぶんと違う感じ方をするものだと別の意味で感動してしまったのも確かで、幸福の科学の思想信条に近い人が見た場合は色々と感じることがあるのではないでしょうか。
そのあたりが評価が真っ二つ……、というよりも極端に高い評価か極端に低い評価のどちらかしかないというこの映画の評価につながっているのではと思えます。





posted by lasta at 13:02 | Comment(0) | TrackBack(0) | は行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年07月16日

プリンセス・トヨトミ

鑑賞映画館:地上波放送、DVD
鑑賞日時:5月12日
評価:C+

原題:プリンセス・トヨトミ
製作:2011年 日本
監督:鈴木雅之
出演:
堤真一
中井貴一
綾瀬はるか
岡田将生
森永悠希
沢木ルカ

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※ネタバレを含む場合があります。

この映画は万城目学著の同名小説の映画化で、大阪には他の地域には知られていない秘密の国、大阪国が存在し、市民は生き残っている豊臣家の子孫のために行動するという想定で作られています。

色々な意味で肩透かしの映画です。
確かに大阪が日本国政府からかなり独立した権限を与えられた自治国であるという発想は面白いですし、大阪城の地下に東京の国会を模した大阪国の国会があるという発想もなかなか良いです。
豊臣の末裔が大阪夏の陣を逃げ延び市中に紛れて現代まで存続しているという発想も面白いですし、もしその末裔に何かあれば街中の人々が一斉に立ち上がるという発想もなかなかいいと思えます。
予告に使われた大阪が無人になる場面のインパクトもかなりあり、ひょっとしたらタイムスリップものか、あるいは歴史の中に封じ込められた何かが突如として現れるといった伝奇もの的な感じもあり非常に期待させられるものがありました。
出演している俳優陣も堤真一や中井貴一を始め実力派揃いですし、ここまで来たらどうしようもない作品を作る方がかえって難しいのでは、と思えるほどです。
しかし、この映画はどうやらそのわずかな可能性に挑戦してしまったようです。

確かに一場面一場面を見ていくと印象的な場面はいくらでもあります。
大阪中の男たちが瓢箪を合図に一斉に立ち上がり府庁に集まり、大阪が無人になるシーンのインパクトは確かにありますし、大阪の男たちの前で大阪国の代表と、会計監査院、ひいては現在の日本国政府の代表との対決というシーンもかなり熱いものがあります。
あるいはその場面への伏線としての意味合いもあったのでしょうが、他に出口の無いはずのOJOの事務所が突然無人になっていたという場面もかなりのインパクトと、何が起こっているのだろうと作品世界にのめりこませる効果は確かにあります。

しかし、その全てに説得力というものが欠けてしまっているのです。

ストーリーはとにかく行き当たりばったりで、何か唐突な思いつきを無茶苦茶やってるうちに騒ぎが起きて、なんでこんな話で納得できるんだと思えるような流れで終了というどうしたらいいのかわからないような代物です。
というよりも、この作品はストーリーを楽しませることに主眼は全く置かれておらず、大阪国の存在が垣間見えるという状況そのものを見せることが主眼の作品と思えます。

ですので展開が唐突なのはある程度仕方のないことなのかもしれないのですが、転換点とも言える茶子の「誘拐」に至る流れにかなり無理を感じてしまうのは否定できず、全体の流れとしてどうなんだろうと思えてしまいます。
そもそもあの場面は大輔が暴力団事務所を襲撃するかもという示唆を茶子に与えてしまったことにより茶子が暴力団事務所を襲撃してしまうことを防ぐための緊急避難でした。
大輔を無視してしまっているのはどういうことなのでしょう。
無茶なところがある彼が実際に行動を起こしてしまうことは容易に予想できますし(だからこそ茶子も行動を起こそうとしていたのです)腕力的にはあまり優れていると言えない彼が襲撃を敢行すれば茶子が襲撃したときよりも酷い結果になることは簡単に予想できます。
であればこの時点で優先すべきは茶子ではなく大輔の保護であり、彼の保護者への連絡であるはずなのです。そして大輔が保護され無茶な行動を起こさないようにすれば茶子が暴力団事務所を襲撃する理由もなくなるのです。
さらに言えば緊急避難的に茶子をホテルに軟禁したとしても、その状況を誰にも報告していないというのはあまりにもおかしい点です。
一応携帯電話を落とした描写はありましたが、ホテルに電話くらいあるでしょうし、画面にもそれらしきものが映っていました。もしそれがダミーであり、実は回線がつながっていないなどとするのであれば、そんなものをセーフ・ハウスにするのが間違っているのです。
つまりかなり無理のある誘拐劇であり、「会計検査院によって茶子が誘拐されたと大阪国が誤認する」という設定が先にあり、その設定のために無理やりにそこに至るストーリーをでっちあげたとしか思えない程度のものなのです。

クライマックスと言える会計検査院…ひいては日本国政府の代表と大阪国の代表との対決シーンも、対峙した場面そのものはかなりいいものがありながら、何を主張し始めるかと思えばそれがどうしたんだと言いたくなるような人情話ですし、そこからの場面展開もあまりにも唐突な上に実行犯にどういう意図があるのかもよくわからない銃撃で、場面を動かす方法を思いつかなかったので機械仕掛けの神に登場してもらいましたとでもいったようなものになってしまっています。

他にも気になる点は多数あり、たとえば作中で最もインパクトのある場面は大阪市街から人が消える場面と言えるでしょう。
しかし、大阪国の存在が死期が近づいてきたことを自覚した父親から息子へと口頭で伝承されるとされているという物語そのものに関わる非常に重要な設定があります。
とすれば、女性や子供は大阪国の存在すら知らないことになります。百歩譲って実は知っていてバカなことをやっている男たちを見守っていて、あの騒ぎのときは自宅で静かにしていたと解釈したとしても、観光客など他地域から訪れている人や、明治以降に大阪に移り住んだ人があの騒ぎの間何もせずに町から消える、などということはありえません。
言い換えるなら、代々大阪に住んでいるある程度の年配の男性のみが職場等から消えるだけの話でその影響も限定的なものになるはずですので、劇中設定ではどうやったところで大阪が無人にはなりえないのです。

最も重要な部分ですらこの程度の説得力の無さですので、他の部分については言わずもがなというものです。
大輔が女装をしていた理由や必然性は全く明らかになりませんでしたし、学校にあった祠も思わせぶりだっただけで(一応、OJOの地下通路への伏線にはなっていましたが)それに大きな意味合いがあったというわけではありません。
OJOから人が消えた理由も画面上でびっくりさせたかったという以上の何も見えません。

つまり、フィクションで重要な作品中で展開されている「嘘」に対する説得力が全く無いのです。
このためできの悪いコメディを延々と見せられてるうちに今ひとつ共感しきれない演説が始まって終わりとしか思えないものになっているのです。

これはもう作劇上何が悪いといった程度のものではなく、脚本や原作レベルでちょっと問題があるのではと思えてしまうほどのもので、一場面一場面の絵としてのインパクト以外何も考えていないのではないかとすら思えてしまいます。





posted by lasta at 13:20 | Comment(0) | TrackBack(0) | は行 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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